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今日の「福沢文明論」の扱い方: 子安著『文明論之概略』精読』 (Yu-ta)
本書は『文明論之概略』を巡って、著者福沢に対して、と言うよりも丸山真男を強く意識したものと言える。
福沢『文明論』を一読した者であれば、だれしも思う違和感、批判、それらを“古典”として取り扱うことで、封じてしまった丸山への対峙だろうか。近代黎明期の福沢文明論は、たしかに一方では“旧”日本・戦前期という、現代とは非連続の社会を対象とした論考である。と同時に近・現代、歴史としての日本社会という連続性をもつものでもある。その意味で丸山の福沢殺し-それは福沢の名誉を守るためであったとしても-は、許されない、まだ福沢を葬ってはならない。
本書の序文を読み、正直なところ救われた思いがした。なぜ福沢を批判してはならないのか、否、なぜ福沢のシナリオ通りに推移した近代日本社会を不問に伏しておかねばならないのか?と。
丸山によって葬られた福沢文明論を断罪するためではなく、議論の机上に戻らせる事、それが著者の狙うところであり、近年の時勢としての近代日本を歴史としての取り扱いの回復の一旦として、意義ある一冊だろうと思う。

福沢文明論は、「功利性という経験主義的な原則」によって、時局を論じたもの。その意味が最も現代の我々においても問われねばならない箇所が“巻ノ三 第六章 知徳の弁”にての福沢の論考であろう。
近世の君臣論からの国体論を反駁するために用いられた功利主義は、現実としては不徹底であった。それは国体論を具現化する用具として用いられたにすぎないのであって、近代日本“人”の思考習慣が変革したことを意味しない。
だが現代の戦後日本では、功利主義が全面に押し出された世である。福沢の言う“後進国日本にとって相対的に重要であるのは徳義ではなく智の養成である”のであって、智は社会の文明化にとって“役に立つ”からであり、人間の生活に“役に立つ”からだという。
『文明論之概略』にも度々登場するギゾーは、文明とは人間の“安楽”と“品位”の増大をいうのであるが、前者が全面的に開花した結果、後者はいかなる事と相成ったか、試みに問いたい。
私が福沢文明論を一読した後に思ったことは“智(知識)は徳(モラル)の範囲を超えてはならない”であったと思う。そしてそれは今でも訂正するつもりはいささかもない。
ともあれ、福沢の言う、時勢の優先、知識によるモラルの再編成、が近代明治期から現代まで一貫して貫かれているキーワードであるからこそ、今日においても通用する議論となりえよう。福沢文明論に対する思いはともあれ興味のある人、或いは福沢文明論には興味はないけれども福沢の描かれた銀行券には興味はある!という人、はたまた文明論やら学問やらはスヽメられても我不要、んでもとりあえず慶應には行って小泉の後輩になりてぇ!と思ったりする人、等々には一読をお勧めする。


4006001428福沢諭吉『文明論之概略』精読
子安 宣邦

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4003310217文明論之概略
福沢 諭吉

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